鎌倉潮風だより

 

 

もくじ

その21 稲村ヶ崎からの風景

その20 高徳院の阿弥陀如来像 new!

その19 江の電

その18 寿福寺の参道

その17 甘縄神明神社 奥の院

その16 源平池の蓮の花

その15 裁許橋(西行橋)

その14 逆川

その13 琴弾橋

その12 妙本寺の参道

その11 浜の大鳥居跡

その10 長谷観音からの風景

その9 永福寺跡

その8 白旗神社 藤沢遠足

その7 元鶴岡八幡宮

その6 材木座海岸

その5 報国寺の竹の庭

その4 やどり木

その3 段葛

その2 由比ヶ浜海岸

その1 八幡さまの大銀杏

その9 永福寺跡(ようふくじあと) 

永福寺跡(ようふくじあと)

 

 吾妻鏡によれば、源義経は3年近く鎌倉に滞在していたらしいのですが、屋敷がどこにあったのかはっきりしません。兄頼朝の片腕になるつもりで馳せ参じて黄瀬川で感動の再会を果たし、兄に従って鎌倉入りした義経に対して、頼朝は兄弟の親愛ではなく、従者としての服従を求めたそうです。それを物語る逸話として駒牽(こまひき)の一件がありますが、この時期の記録は、「駒牽以外は空白」という説が有力です。鎌倉入り後の義経は、「九郎主(くろうぬし)」の他、「御曹司(おんぞうし)」とも呼ばれていましたから、頼朝の屋敷に「部屋住み」していたことも考えられます。しかし佐藤兄弟をはじめとする従者や馬の数、装備などを考慮に入れると、屋敷を構えていても不思議ではありません。鎌倉には、平安時代の寺院が残っていたり、御家人たちの屋敷が史跡になっていたりするのに、義経ほどの人物の記録がないのは、政治的、意図的なものと考えて良いのではないでしょうか。

 さて今回ご紹介するのは、永福寺跡。鎌倉宮の裏手にある巨大な空白地帯です。永福寺は、義経や藤原泰衡を含む、奥州合戦戦没者の慰霊のため、頼朝の命で建立されました。発掘調査により、南北130mの巨大な二階建ての伽藍と100mにおよぶ池があったことが分かっていますが、今は広大な空き地にススキが揺れているだけ。鎌倉に今なお残る空白の中に、義経の姿が見えてくるような気がします。
(リラ自然音楽研究所から、バス、徒歩合せて35〜40分くらい)

<道案内>
鎌倉宮(大塔宮)までは、鎌倉駅から徒歩なら30分くらい。バスなら「大塔宮行き」に乗って10分ほど。そこからさらに徒歩5〜10分くらいです。鎌倉カントリーテニスクラブの横に石碑があります。2010年1月現在、跡地は立ち入り禁止で、外からしか眺められません。これまで、一面のススキ野原として紹介されてきましたが、4年後に史跡公園化の予定があり、かなり整地が進行しています。map

2010年2月号掲載

前ページ

最新ページ
次ページ
リラ自然音楽ホームページへ



Copyright © 2011-2013 The Gentarou Yamanami Cultural Foundation.