吾妻鏡によれば、源義経は3年近く鎌倉に滞在していたらしいのですが、屋敷がどこにあったのかはっきりしません。兄頼朝の片腕になるつもりで馳せ参じて黄瀬川で感動の再会を果たし、兄に従って鎌倉入りした義経に対して、頼朝は兄弟の親愛ではなく、従者としての服従を求めたそうです。それを物語る逸話として駒牽(こまひき)の一件がありますが、この時期の記録は、「駒牽以外は空白」という説が有力です。鎌倉入り後の義経は、「九郎主(くろうぬし)」の他、「御曹司(おんぞうし)」とも呼ばれていましたから、頼朝の屋敷に「部屋住み」していたことも考えられます。しかし佐藤兄弟をはじめとする従者や馬の数、装備などを考慮に入れると、屋敷を構えていても不思議ではありません。鎌倉には、平安時代の寺院が残っていたり、御家人たちの屋敷が史跡になっていたりするのに、義経ほどの人物の記録がないのは、政治的、意図的なものと考えて良いのではないでしょうか。
さて今回ご紹介するのは、永福寺跡。鎌倉宮の裏手にある巨大な空白地帯です。永福寺は、義経や藤原泰衡を含む、奥州合戦戦没者の慰霊のため、頼朝の命で建立されました。発掘調査により、南北130mの巨大な二階建ての伽藍と100mにおよぶ池があったことが分かっていますが、今は広大な空き地にススキが揺れているだけ。鎌倉に今なお残る空白の中に、義経の姿が見えてくるような気がします。